鬼村鉱山は、明治42年(1909)から昭和42年(1967)にかけて、日本国内で「石膏(こう)」の主要な産地の一つでした。鬼村の古屋谷石膏場では、慶応年間(1867)頃より漢方薬として上方へ売られていたといわれます。石膏はコンクリートの原料であるほか、医療用のギブス、石膏ボードなどに使用されます。鬼村の石膏の品質は高く評価され、100人以上の働き手が居た地域の主要な産業でもありました。この鉱山の記録は、50年余り鉱山で勤務していた夏野金次郎氏(1898-1975・八代)の手記「石膏山記」の存在を故桜井貞光氏(久利町)が知り、貴重な記録として紹介されました。この記録は鬼村下自治会(渡辺隆司会長)の会報でも紹介されてきましたが、その歴史に関する概要を紹介します。

 鉱山の開発は明治42年、鵜鷺村(出雲市大社町)の山師商人・岡有一氏が仁万に宿泊した際に鬼村で石膏が採れることを知ったのがきっかけとなりました。大正7年(1918)、鉱山所有者の塩田万市氏が、大阪石膏株式会社を創立し鬼村松代出張所を置いて経営を行いました。昭和初期の石膏生産は、島根県が全国生産量の7割以上を占めていたといわれます。

 また、鉱山から産出した石膏は、開発当初は人が静間まで背負って運び、そこから荷車で和江港へ運んで船積みしていました。大正初年に輸送の不便さを解消するため、道路がつくられ馬車運搬になり、その後、道路に沿ってレールが敷かれトロッコ軌道が和江港まで整備され、昭和15年(1940)まで操業(静間軌道株式会社)されました。 鬼村鉱山は、昭和42年9月まで60年間操業が続きました。石こうの「膏」の字の使用も鬼村が最初であったといわれています。100年前の往時を偲ぶ面影は少なく、鉱山跡は竹藪に覆われ沼地となっており、貴重な歴史を伝える人は、今はいないということです。【参考:鬼村下自治会会報(鬼村のむかし)より】

◆鬼村鉱山跡への行き方◆
JR静間駅から大屋方面(市道静間大屋間)車で15分
詳しくは、大屋まちづくりセンター(☎0854-82-5580)

 


この記事は「どがなかな大田市です!!」Vol.24(2013年6月発行)に掲載されたものです。
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